どうも管理人のKosukeです。
https://twitter.com/YSK_NMR/status/1030015856212815875
当サイト英語勉強法.jpの編集長のBryceさんのTweetに共感したので、久し振りにブログを書いてみました。
教養があっても性格が悪いなら学んだ意味なし
筋トレのチャンピオンが「筋トレしないやつはカスだ」みたいなことを言ったら人間としてゴミだと思うのですが、教養屋の中ではそういう奴が多々いる。
教養がない人を卑下する教養屋さん。
大学教員の中でも、中途半端な人とかが多いですね。
そんな人がもし今後教授とかになったら学問も終わりなので、性格をまず直しましょう。
大学側もよくそんな人を雇いますね。
人を卑下する人間が、大学で教えたらダメだよ。
英語界隈に多いですよ。
TOEICをバカにする人とかよくいます。
英語は英語です。
全員が全員、教養を学ぶ必要はない。
ゲームが好きならゲーマーでいいし、
コスプレが好きならコスプレーヤーでいい。
教養がないとなれない職に性格がダメな奴が一定数就いているってことは、教養だけでは世界は良くならない証左だよね。
これ反駁できますか?
一流の教授とかは、教養がない人を卑下することはあまりないと思います。
だって、それが教養だから。
(もちろん、彼らが苦言を呈することはありますが)
教養と人格はある意味同義だと考えますが、人格がひん曲がっている人は「教養がある人」と言えますか?
以下のガラハッドさんという御仁のTweetが全てを言い尽くしていると思います。
仰る通りだと思います。本当に教養のある人は他人を見下しませんよね。たとえ意見の相違はあっても立場、意見を慮りつつ建設的議論を行い、差異に寄り合い、止揚しゆく。お互いに心地よい学びの時間となってある種の高揚感に包まれたような気持ちになります。無教養だと嘯く輩こそ無教養だと思います。
— ドラクロア (@kingsman0501) August 16, 2018
教養「も」できるようになろう
教養「だけ」できて、Twitterで人の批判ばかりしている人は、コミュ障なんだと感じます。
知識だけじゃダメです。
人の気持ちを考えられるようになりましょう。
読書だけではダメな時代になりました。
小説は人の気持ち、そして人間を理解するために読むものとしても機能しています。
しかし、現実はたくさんの小説を読んでいるはずの人間がTwitterで辛辣に他人を批判している。
なんなら、知識でマウントを取ろうとする。
以下は、東大名誉教授の言葉。
しっくりきます。
時代が変わったんです。
人間を有り難がる姿勢が小説を支えていた。もうその前提が成り立たない。日本の場合、教養を身につけるという行為は明治の開国以来ずっとやってきた。そこには頑張れば物質的にも精神的にもより良くなれるはずだという大前提があった。今は、教養を身に付けても別に良いことはないことが露呈して、教養として小説を読むことは義務でもなんでもない時代になった。でも好きな人しか小説を読まなくなっているのはある意味で健全。
特に大学教員の方は、私からするととても気になる。
大学は教養を学ぶ場所のはず。
その教員が人を批判するようなTweetを毎日のようにしていいのでしょうか?
いや、ってか、Twitterしてないで、
その時間で「光る」論文を書きたまえ。
教養も選択肢の一つの時代です。
自分の好きなこと「も」教養「も」できるのが理想ですが、
忙しい人生ですから、自分の好きなことを優先しても良い時代だと思います。
清く生きたい/逝きたいですね。